ハードキャンディ
「ハードキャンディ」(2005年、アメリカ)を観た。
…想像以上にショッキングな内容だった。いろんな意味で。
「ロリコン」と罵られ、14歳の少女にとことん復讐される男の側に
立って考えてみざるを得なかった。
人は、性的指向、性的対象を選べない。たとえ「小児性愛者」に
なりたくないと思っていても、許されないことと知っていても。
もちろん、性関係には常に権力がつきまとうので、圧倒的に非対称
な「大人・対・子供」を支持することはできないが…そういう理屈
を越える欲望という如何ともしがたいものを目の前にして戦慄する。
この映画のハイライトは、男が少女に「去勢」させられる(と断言
してしまおう)シーンにあると思われるが、体の一部を切り取られる
という恐怖以上に、「去勢させられる精神的苦痛」にスポットライト
が当たっている。
世の多くの男性に対しシステマティックに埋め込まれているはずの
「去勢恐怖」の感情をあぶりだしているわけだが、「小児性愛」と
いう十字架を背負ってなお、男性の機能を失いたくなくて必死に
なる男の姿が痛々しい。本人にとってさえ因果な「タマ」は、それ
でも守るべきものなのだ。男の「人間としてのアイデンティティ」
になぜか直結しているから。…そういうことに縛られていない人も
いるだろうけれど、私はここに、男性に課せられた業を見てしまう。
*
以上私は、嬲られる男性側に立って観てもいたが、当然これは少女
が主人公の話である。少女に対し、男は抑圧的に振る舞う。一見
「セラピスト風」な話し方を装いながら。
「何か普段の生活上不満なことがあるんだろう?」「怒りを認め、
吐きだしてしまわなければいけないよ」「僕が受け止めるから」。
こういう言葉に、少女は一瞬動揺する。しかしそれは、男が少女を
なだめて形勢を逆転させるための甘言にすぎないことを、彼女は
賢明にも見抜く。
「カウンセリング」というものが、徹底的に相対化されてしまった
後の世界が描かれているのだ。その人のことを思いやって放った
言葉が、結果として人を解放する、それが救済のプロセスのはず。
カウンセリングは、その過程をいわば故意に作り出す装置である、
という事実を男は悪用している。
少女はそれを理解した上で、「わたしは『異常』だから」という
最強の言葉でもって全てを封じる。…痛快な一幕である。
**
男がいくらなだめすかし、怒り狂っても、少女はやめない。
驚くべきことに、復讐は成功するのだ。大の男が、14歳の少女に
よって破滅に追い込まれる。
物理的な力でも、権力関係においても弱い存在が、勝利を収めるの
である。
強い者にはやはり勝てない、と感じている人全てが観るべき作品だ
と思う。既に奪われた自分の尊厳は取り戻せなくとも、加害者の
尊厳を奪い、復讐することは(フィクションの上では)可能で
ある、という暗い希望を抱かせてくれる映画だから。
…と、よくよく考えればそうなのだが、観終わった直後はただ、
私は放心状態であった。快哉を叫ぶ気持ちとはほど遠かった。
復讐の成功と、自分が満足することとは、別のことなのかもしれ
ない。というあたりまえの結論が頭をよぎる。
***
少女が「ずきんをかぶる」というオチは、理が勝ちすぎていて、
それまでの緊迫感を一瞬のうちに打ち消してしまうようで不要なの
ではないかと感じた。が、何らかのピリオドを打たなければ終われ
ない作品構造だとも思われるので、まあ仕方ないのだろう。
…それで終わることができないのは、観客のほうであるかもしれ
ない。
…想像以上にショッキングな内容だった。いろんな意味で。
「ロリコン」と罵られ、14歳の少女にとことん復讐される男の側に
立って考えてみざるを得なかった。
人は、性的指向、性的対象を選べない。たとえ「小児性愛者」に
なりたくないと思っていても、許されないことと知っていても。
もちろん、性関係には常に権力がつきまとうので、圧倒的に非対称
な「大人・対・子供」を支持することはできないが…そういう理屈
を越える欲望という如何ともしがたいものを目の前にして戦慄する。
この映画のハイライトは、男が少女に「去勢」させられる(と断言
してしまおう)シーンにあると思われるが、体の一部を切り取られる
という恐怖以上に、「去勢させられる精神的苦痛」にスポットライト
が当たっている。
世の多くの男性に対しシステマティックに埋め込まれているはずの
「去勢恐怖」の感情をあぶりだしているわけだが、「小児性愛」と
いう十字架を背負ってなお、男性の機能を失いたくなくて必死に
なる男の姿が痛々しい。本人にとってさえ因果な「タマ」は、それ
でも守るべきものなのだ。男の「人間としてのアイデンティティ」
になぜか直結しているから。…そういうことに縛られていない人も
いるだろうけれど、私はここに、男性に課せられた業を見てしまう。
*
以上私は、嬲られる男性側に立って観てもいたが、当然これは少女
が主人公の話である。少女に対し、男は抑圧的に振る舞う。一見
「セラピスト風」な話し方を装いながら。
「何か普段の生活上不満なことがあるんだろう?」「怒りを認め、
吐きだしてしまわなければいけないよ」「僕が受け止めるから」。
こういう言葉に、少女は一瞬動揺する。しかしそれは、男が少女を
なだめて形勢を逆転させるための甘言にすぎないことを、彼女は
賢明にも見抜く。
「カウンセリング」というものが、徹底的に相対化されてしまった
後の世界が描かれているのだ。その人のことを思いやって放った
言葉が、結果として人を解放する、それが救済のプロセスのはず。
カウンセリングは、その過程をいわば故意に作り出す装置である、
という事実を男は悪用している。
少女はそれを理解した上で、「わたしは『異常』だから」という
最強の言葉でもって全てを封じる。…痛快な一幕である。
**
男がいくらなだめすかし、怒り狂っても、少女はやめない。
驚くべきことに、復讐は成功するのだ。大の男が、14歳の少女に
よって破滅に追い込まれる。
物理的な力でも、権力関係においても弱い存在が、勝利を収めるの
である。
強い者にはやはり勝てない、と感じている人全てが観るべき作品だ
と思う。既に奪われた自分の尊厳は取り戻せなくとも、加害者の
尊厳を奪い、復讐することは(フィクションの上では)可能で
ある、という暗い希望を抱かせてくれる映画だから。
…と、よくよく考えればそうなのだが、観終わった直後はただ、
私は放心状態であった。快哉を叫ぶ気持ちとはほど遠かった。
復讐の成功と、自分が満足することとは、別のことなのかもしれ
ない。というあたりまえの結論が頭をよぎる。
***
少女が「ずきんをかぶる」というオチは、理が勝ちすぎていて、
それまでの緊迫感を一瞬のうちに打ち消してしまうようで不要なの
ではないかと感じた。が、何らかのピリオドを打たなければ終われ
ない作品構造だとも思われるので、まあ仕方ないのだろう。
…それで終わることができないのは、観客のほうであるかもしれ
ない。













